2014年08月19日

「夏へのエール」















最近、よく考えるのですが、


老いは「劣化」ではありません。


ただ、ひとつ隣のステージに自身が移っただけです。


ステージが移れば価値観も少し変わります。


横を向けば以前、渡ってきたステージが見え、


反対側には、これからのステージも朧げながらも眺められます。


心だけが以前のステージに執着しているから


老いを嘆くのであって


要は今のステージを自分なりにひたすら生きれば良いのです。


欲を持たずに「なぁんだ、そんなことか。」と思って


肩の力を抜けば自ずと愁眉は開くのです。







勿論、その新たなステージには理想とすべきテンプレートがあります。


その時々の自分の心と身体がシンクロして


芯の通った清く凛とした、


お手本とするべき佇まいがイメージとして存在しています。


今のステージではそれを粛々と目指せば良いのです。






それはこれからこのステージに来る人たちから


邪心を持たない憧れや共感を得るものです。


それがこれから来る人たちへの「ひとつの指針」になるのです。


自分がいまここから眺めて、


その先のステージに何のイメージも


何の憧れもないとしたならば


それは、その先のステージを含めた周辺に


まだ「そういう人」がいないということなのです。


だから人は先々に不安しか持てないのです。


社会や会社、政治に地域を含めて、


おおよそすべては、そういうことです。

























生まれたての河川は細く


それでいてとても清く冷たい。


地上に湧くまでの「一滴たち」は


膨大な時間をかけて濾過されてきた。


その湧き水の周りには清流を好む植物が繁茂し、


清い水にしか住まない魚や生き物たちがいる。





幾つもの「一滴」を集めた急流は


やがて穏やかな流れとなり淵をゆっくりと進みます。


そのころには「清濁併せ呑む」水色となって


それを好む魚や生物たちが住むようになり


そこは生命の営みのベースとなります。


冷たい上流で焦って、無理に経験を積む必要はないのです。






土砂降りの豪雨が降れば土色が川を染め


雨量が少なければ淀んだ水は臭うことすらあります。


でも、それらのアクシデントやイベントを含めて川は川です。


やがて遥か想像を超えた広い広い海へと注ぐ


「ただ一本の流れ」なのです。




























自分でその流れを止めることは、


清濁併せ呑むことの意味や


悩みの先にある愉しみを味わうことなく


まるで急流から滝になって


直接、海に落ちるようなものです。





自分の「現在の頭脳と経験だけを物差し」にして


「将来の全て」を推し量ることは無意味です。


人は時間という流れの中で


ゆっくりと変わって行くものなのです。


いま持ちきれないほどの悩みも


経験と知識という「筋力」がつけば


決して抱えきれないものではないのです。






将来ずっとではなく、


いまを辛抱することで流れは変わるのです。


そのために、人は知恵というツールを持っています。


それは同じではないけれど誰もがいつかぶち当たる


それぞれの壁に向かって自分をコントロールし


身を守る為の「ひとつの道具」なのです。


そして分かりやすく淘汰・整理された言葉は、


「貴方へのエール」として、ここにあるのです。





















  

Posted by ひげ at 20:55Comments(0)雑感